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8月10日(木)
まだ日本にbodumが入って来る前に、ニューヨークのミートマーケットにあったショップで買ったB5サイズのトートバッグ。意外と便利で使い勝手も良く愛用している。それが気がつけば帽子に変貌。あははは笑かさないで!ただでさへニコちゃんに目薬をさした時に、はいおめめパチパチしてと言うと、目はしっかり閉じたまま、口で「パチパチ」と言うので大笑いしたばかりだと言うのに。
さて、ここのところ徳井家関係者は普段とは異なる暮らし振りだったので、世の中で何が起こっていたのかちゃんと覚えていない。確かに新聞やニュースは眺めているのだが、頭にちゃんと入っていないのだ。父が逝去した8/2(水)には、亀田のインチキくさい世界戦があったはず。世の中は随分盛り上がっていたが、個人的に最初から胡散臭過ぎてついていけてません亀田家。もう少し品良くやってください。そしてこの日、胃癌の手術で入院していた王監督が退院したはず。あとはなんだろう・・・やはり思い出せないのだ。イスラエルは相変わらずレバノンへの攻撃を激化させているし、小泉首相は15日に靖国参拝する気でいるらしいし、パロマは限りなく不誠実だし、畠山容疑者はその供述をコロコロ変えているし。そうそう、先週辺りにガソリンが一気に140円台になったのは大打撃。これでますます遠くに出掛け辛くなる。米国産牛肉もそろそろ市場におりてきたし、整理してみると世も末だから忘れちゃった方がマシかも。
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8月9日(水)
人が1人死ぬと、思った以上に種類の異なる多くの手続きを役所・各機関で行わなければならないので、けっこう大変だ。今日も実家に戻り、母を車に乗せて郵便局や市役所を練り歩いたが、ただでさへ疲れているのに、そもそも面倒だし、台風でよく前は見えないわでコイツはたまらない。
夕刻雨も止み、昨日に引き続きドラマティックな雲を眺めながら、イチロウと公園をお散歩。昼間台風のせいで誰も来なかったからか、体シマシマのヤブ蚊のみなさまが「まってました!」とばかりに襲撃して来る。都合8カ所くらい刺されるも、蚊への免疫は強いらしく、すぐにカユミも腫れも引く。そして、父の参加していた自然発生的犬コミュニティのメンバーのみなさまとすれ違い、立ち話ではあったが、ついに父が他界したことを告げた。入院前まで普通に元気だったからか、かなりショックだったようで、49日までには一度お線香をあげさせてください、なんて言ってくれた有り難い犬仲間。
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8月8日(火)
台風が東海地方に近づいているのは知っている。だからと言って、今日の夕方の摩訶不思議な空模様は予想だにしなかった。18時過ぎ、冷やし中華をモリモリ食べていたニコちゃんが突然「お空が明るい」と言うので見てみれば、いやいや西にはダイナミックな夕焼けが神々しく輝き、強烈な真っ赤なビームを受けた周辺は、夕暮れ時なのに不自然に明るく、空は青く、建物は赤く、雲は白く、幾層にも異なる種類のグラデーションがかかり、何と言えば良いのか、そう、正に言葉を失ってしまうほど美しかった。こんなシチュエーションにいるから、なお一層いろいろと感じてしまう。生と死と、宇宙と星と、そして父。
今日はごちゃごちゃになった頭の中を整理する日にした。デジカメの画像を読み込み、しばらく更新していなかったこのページを時間をかけて時系列に整理し、ひたすらタイプする。こうやって振り返ってみると、本当に過密度にいろいろとあった。それは肩こりの酷さからも推察されるのだが、たぶん、この1ヵ月半くらい思った以上に、心も体も疲れているらしい。
途中、銀行に行ったり買物に行ったりして、妻に代わってニコちゃんをピックアップし、ベタベタと遊んだ。今はキミが元気にニコニコしてくれるだけで、どんなに救われることか...家族って家庭ってやはり素晴らしい。大切に守って行かなければと、ダイナミックな夕焼けに誓った火曜日。 |
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8月7日(月)
ニコちゃんはどうやら盆踊りの虜らしい。画像は、先日サンシャインシティで行われた盆踊りの模様だが、団扇をパタパタさせて東京音頭にもうノリノリで、いつまでも帰ろうとしなかったらしい。妻はその様を見て盆踊りが大好きだった入院中のおばあちゃんを思い出し、感傷的になっていたらしい。ニコよ、おばあちゃんの意思を継ぎ、立派な踊り手になっておくれ。
さて、本日も朝から実家に戻り、母と姉と共に、菓子折りなどを仕入れ、お世話になった皆様に挨拶回りに伺った。初めて訪れた、父が長年勤めた会社。社長さんや、同僚や部下のみなさま。誰もが温かい言葉をかけてくれて感無量です。父が生前どんな場所でどんな「まいにち」を送っていたのかを垣間みることが出来て、今日は誰にとってもとても良い1日だった。午後には、葬儀を取り仕切っていただいた世話役のお宅にもご挨拶に伺い、感謝の意を述べる。夕刻はいつものように広場でイチロウを散歩させ、戻ってからは、明日徳島に帰る姉の手料理をいただき帰路についた。大塚では眠る直前の盆踊りクイーンに会うことができラッキー。さのよいよい。 |
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8月6日(日)
大塚で目覚めたら、汗びっしょりだった。もう少しゆっくりしたかったが、ニコちゃんが6時くらいから騒いでいたので、今朝も例によって寝不足だ。今日も埼玉へ戻り、葬儀後の事務処理的なことを行い、基本台帳などを作成。夕刻にはニコちゃんを連れて草加公園へ。ダックスフンドを連れた父の散歩仲間に出会い、母が「御主人はいかがですか」なんて聞かれたが、立ち話で「実は云々...」と切り出せるはずもなく、「ええまだちょっと....」なんて答える事しか出来なかった。
夕刻はローテションからいってイタリアンだったので、近所のレストランでスパゲッティ類を特にニコちゃんが食い散らかし、ただでさえ食欲が減退しがちな環境下にいるみなさまのアペタイトをくすぐっていただく(そういう役割ね)。誰もが無理に元気にしているのがわかっているので、微妙な日曜日ではあったが、今はただ頑張るしかないと素直に思います。 |
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8月5日(土)
土曜日も昨日に劣らずジリジリと真夏の日射しが照りつけおそろしいほど暑かった。葬儀と告別式は午前11時からなので、その前に足取り重くイチロウの散歩を済ませておいた。
葬儀には約50名ほどに会葬していただいた。群馬から義父さん。池袋から義妹。新宿からプエルトリ子も駆けつけてくれ感謝。式は滞りなく進行し、弔電の披露が終わると、棺の蓋が明けられ、おもむろにアサヒスーパードライをグラスに注ぎ、百合の花弁を使ってみなで父に飲ませてあげた。母が「もっと飲みたかっただろうにね...」と涙ながらに父の口を湿らす...父は本当にビール好きだった。癌が発覚してからも、最期までビール一杯の晩酌は続けた。
それが終わると次は「別れ花」の儀式だ。親族と会葬者みんなで遺体の周りを生花で美しく飾って行く。父のよく着ていた服や帽子、定期的に購読していた釣り雑誌や学びたい一心で購入したけど読めなかった料理の本、さらに朝切ってきたイチロウの毛なんかもこっそりお棺に偲ばせた。いつの間にか感傷的なBGMも流され、いっそう別れの雰囲気を盛り上げ、そこかしこから嗚咽が漏れる...。もうこれで本当に物質的にお別れかと思うと、涙が溢れそうになったが、溢れなかった。理由はすぐ後に締めの挨拶を行わなければならなかったから。もしここで一線を越えてしまうと、きっとちゃんとした挨拶が出来ない。そうでなくても初めての葬儀の仕切りで、至らない点も多々あったはずで、それを埋める為にも最後の挨拶だけは何があってもちゃんとやって、葬儀全体を締めなければと、そればかり考えていた。野球好きの父だから、クローザーがいかに大切かわかっていることだろうと言うのもあり、父の為にもがんばらねばと相当なプレッシャーで臨むことになった。
人間ってこういう時に果たしてちゃんと挨拶出来るのか疑問だったが、実際「本日はご多用のところ...」と始めたら、案の定こみあげてきて涙声になってしまった。でもここで何とか踏ん張って、3分ほどの挨拶をノーミスで終了。「おとうさん、あなたの息子はプレッシャーに負けず、あなたの為に締めの挨拶うまくできました。だから安心して旅立ってね」。この瞬間開放された。
そして出棺。葬儀はクライマックスへ。霊柩車の後を徒歩で追う。35度以上のP感の下、強烈な日射しで象られた影を見て、そのコントラストに現世とあの世の正に境界線を感じ、一気に涙が溢れ出る。その後、火葬、骨上げ、繰り上げ初七日法要、精進落としをし、急ぎ飛行機で帰る親類を駅までピストン輸送して葬儀は終了。コンパクトに骨壺に納まった父と、遺影と、位牌と共に父の車で自宅へ向かい、中陰檀を設置して、おおよそこの日のスケジュールは終了。イチロウを散歩させ、夜はみなで中華でもつまんでクタクタ。ちょうどこの日は花火大会が行われていて、父の旅路を彩るように、夜空に大輪の花が咲き乱れていた。 |
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8月4日(金)
朝9時で既に気温は30度以上という猛暑に見舞われたこの日、妻とニコちゃんが父の死後初めてご対面。2才半のニコちゃんはしきりに、じいじはどうして寝ているの?と状況が飲み込めないご様子。そりゃそうだ、この歳で死と向かい合うのは早過ぎる。だからこそ悔やまれるというのもあって、きっとおもしろおかしい祖父さんだったに違いないから、しっかりと記憶の中に留める年齢に達しないうちに他界してしまって残念だ。妻も泣きっぱなし。
夕方になって業者が車でやって来て、自宅から遺体を寝台車で搬送。炎天下の中、父の車を掃除して、着たくもない喪服に着替え後を追うように式場に到着。花が好きだった父の為、みなで話し合って、より多くの生花を追加したかいあって、祭壇はジメジメどよーんとした雰囲気ではなく、父らしいあっけらかんと明るく華やかな感じになっていて、これには一同満足。また、遺影には最期の時を共に闘ったイチロウを抱き上げたものを選んだのだが、こちらも実にらしい仕上がりで良かった。喪主(母)と花札の順番を決めたり、僧侶に挨拶しお布施を渡したりしている内に、あっと言う間に納棺の時間となる。親族一同霊安室に移動し、父の遺体を棺に移すのだが、父の体は思ったよりも重く、男手の少ない徳井家はけっこう苦労した。ニコちゃんも終始神妙な顔つきで儀式の推移を見守っている。
18時、僧侶が入場して通夜は始まった。基本的に家族葬を行う所存だったが、この日の通夜に集まったのは約180名ほどで、ほとんど社葬みたいな規模になってしまった。これも全て人気者だった父の人徳のなせる業、とにかく想定外でも有り難い事だ。僧侶がお経を唱え始めると同時に、ニコちゃんが「オナラ、オナラでちゃった」と発言しているのが聞こえこの先どうなるか不安だったが、それ以降はまぁ静かにしていてくれた。通夜振る舞いもみな遠慮して早目のお開きとなり、大量の香典と会計帳を預かったので、ニコちゃんを連れ一旦自宅へと戻り、再び式場に戻ったらもう親族以外誰もいなかった。寿司やオードブルを平らげこの日は式場には泊まらずに22時頃自宅に帰り、明日の出棺の挨拶用の原稿をまとめたりした。あまりにも慌ただしいので、感傷的になっている暇がないけど、かなり参ってはいる。 |
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8月3日(木)
一夜明けて、お昼までに実家に戻り、冷房の良く効いた部屋でドライアイスに包まれて安置されている父(の遺体)にお線香をあげる。その顔は実に安らかで、今にも起き出してきそうにも思える。その後、葬儀社の若い担当者や世話役をお願いした父の親友が訪ねて来て、詳細について打ち合わせを始める。途中ひっきりなしに、お悔やみの電話がかかって来たり弔電や香典が届く。家族で話し合って、こじんまりと葬儀を行うつもりでいたが、70才まで働いていた父だから、会葬者を限定するのはむしろ困難と判断し、もうひとつ規模の大きい斎場に変更をしたり、通夜振る舞いや精進落しを追加したり、母の負担を考え、香典返しを「当日返し」に出来るよう設定したり、遺影を決めてデータを渡したりした。
そう言えば、我が家は先祖代々「浄土真宗本願寺派」である。この宗教は他の仏教とは教義が少々異なり、心身が死滅した後は阿弥陀如来の力で浄土に往生させていただく「往生即成仏」が基本。なので、葬儀自体が故人の旅立ちを見送る意味ではなく、浄土での再会を約束するための儀式となる。この他、焼香も香をいただかないで1回のみだったり、いただくお香典袋も、実際は納骨するまでは「御霊前」であるが、即成仏なので「御仏前」が正しいなど、実際面と向かうとなかなかトリッキーな宗教であった。
それから、父が逝去する直前、自分にとってひとつ不思議なことがあった。イチロウを散歩させる為に、急ぎ自宅に戻った時の事、マンションの入り口に見た事もないような、蛹から変態したばかりの大きな蛾が印象的にとまっていて、昔何かで「蛾は死と再生のシンボル」と書かれていたのを思い出した。で、ドアの前まで来ると、今度は足元にアブラゼミがポトリと仰向けになってもがいていた。蝉も同じく再生のシンボルである。これは父からのメッセージなのかなと本能的に思った。ちなみにそのアブラゼミは散歩に出掛けるイチロウに鼻でフンフンんと小突かれ、お向かいの玄関先に移動してしまった。また、この日の夕方、姉の喪服を購入するため、近所のスーツ量販店を訪れた時のこと。これまた見た事もない羽アリの大群と出くわし、このあたりも偶然とはいえ、蟻=働き者=父が、飛んで(旅立って)行くのかなぁなんて、感傷的になったりもした。明日は18時からお通夜だ。 |
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8月2日(水)
時計は零時を回り、血圧はなおも下がり続けて、上が70台をキープ出来なくなって来ると、徐々に呼気も弱まり瀕呼吸になる。酸素を十分に取り込めないから、段々と呼吸が浅く速くなってしまい、1分間に35回を超えたりもした。そうなると、悲鳴にも似た人工呼吸器のアラームが頻繁に鳴り始める。薄暗い病室にけたたましいアラーム音がこだまし、残ったエコー音が壁中を複雑に反射し体中にグサグサと突き刺さる。こうなると、付き添う方も常軌を保つのが困難になってくる。出血は止まりつつあるが、昨日から腎機能が低下し尿が排出されておらず、最大で12本もの点滴の入った父の体は、NYで行われるMACY'Sの感謝祭パレードのバルーンの如く膨張してしまい、それだけでも十分痛々しい。体温も35度台まで下がってしまい、母と2人「がんばって」と声をかけて父の体をさするけれど、その姿はあまりにも痛々しく、いつしかその思いは「もうじゅうぶんがんばったよお父さん」に変質して行ったと思う。夜が明ける頃には、姉と親類に連絡を取り、自分は急ぎ実家に戻りイチロウを散歩させてから病院に舞い戻る。たぶん家族思いの優しい父は、夜が明けて病院まで親類が駆けつけられるように、精一杯頑張ったんだと思う。
心拍停止が報告されたのが、11時前頃。その後、心臓が再び脈打つことはなく、11時5分、せみしぐれに送られるよう、父は静かに息を引き取った。最期はあっけないほど早かった。72才の生涯だった。残念という気持よりも先に、「本当によくがんばったね、ありがとう、今はただゆっくりやすんでね」と、素直に思った。
父が亡くなった後は、不思議な巡り合わせで大変な時に限って父の担当となる、プロ意識の高い素晴らしい看護士さんの指示に力なく従う。待合室で待つ間、遺体を処置し体をきれいにしてから着替えさせ(多少の死化粧も施してくれた)、駆けつけた姉と対面、その後いやいや葬儀社を手配する。しばらくして遺体は霊安室に運ばれ、この間、死亡診断書を受理したり、事務手続きを済ませる。でも、何かはしてるのだが、何をしているのか誰もよくわかっていない。自分だって、感傷的にになりたい気分だが、手配を進める損な役回りなので気を張りつめ、冷静にいることが求められる→却って辛い。
やがて寝台車が到着し、教授を始め、看護士たちが整列して見送る中、父は40日振りに自宅へと戻って行った。イチロウがどんな反応をするか気になったが、肉体から魂が抜けた父を、自分の飼い主である父とは認めず、遠巻きにしているだけだった(やっぱりわかるんだね)。ここから通常どうなるのかと言うと、北枕で遺体を安置したら自宅に葬儀社のディレクターを呼び、まずは通夜・葬儀の日程や規模を決める為の打ち合わせとなる。喪主は母に決定し、仕切りと出棺の挨拶は自分が行うこと。翌日に通夜だと斎場に空きがなく、通夜を金曜、告別式を土曜に執り行うこと。熊本県に菩提寺があるので、法名は納骨時にいただくこと等、ざっと決め詳細は翌日に決めることにした。今夜は枕飾りにお線香を絶やさないよう、母や姉、叔母たちが22度まで冷房を効かせた部屋で付き添うので、自分は喪服を取りに大塚へ戻った。
2年前の春に担当医から「余命1年」を宣告されて以来、いつかはこんな日が来るとは覚悟していた。だけど、実際に逝去してからのあれこれを具体的に準備することなどはしていなかったし、気持ち的にも後ろ向きな行為でしたくもなかった。それが普通だと思う。だからそうなると当然バタバタする。仕方ない。 |
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8月1日(火)
月末に出血箇所を特定し処置を行った事もあり、昨日の時点で父の容態はだいぶ持ち直した感もあった。そのため10日ほど付き添っていた姉も、一旦徳島に戻り、後は長期戦の構えでゆっくりゆっくり治癒するのを待つ思いでいた。この時点では、たぶん本人も、家族も、医師も、看護士たちもみなそうだったはず。。。でも夕刻に母からかかってきた電話で、淡い希望は消え去り、再び父の容態が深刻なステージに陥りつつあることを知る。しかも今回は担当医師の医学的見地をベースにしたアラートではなく、ずっと父の容態をウォッチしている看護士からの「危険な状態ですね」と言うアラートだ。
夕方病室に駆けつけて実際に顔を見て、これは本当に不味いなと直感的に感じた。人間の体というもの、生命を維持する上で一番いけないことは、心臓がちゃんと動かなくなる事。ここに直結するのが血圧であり、心拍数であり、体温であり、呼吸であるが、何よりも絶対にいけないのはその佇まいである。これまで体中に麻酔が回っていても、調子が良ければちゃんとした反応もあり、少しならば表情から意思も確認出来た。でも、今日の父と言ったら、呼びかけには何の生物学的反応もなく、顔を覗き込んでも瞳に輝きは認められず、奥底に宿りつつある漆黒の闇と目が合ったりするばかり。母と2人、泊まり込んで付き添うことに。 |