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5月14日(水)
ちょっとホッとするニュースがあった。それは何かと言うと、ニューヨークタイムズの記事ねつ造事件だ。27才の専属記者が他紙のインタビュー等を勝手に拝借し、取材記事をでっち上げ続けたこの事件、わかっているだけでも36本。現在この記者が関わった過去記事600本についても、調査中だと言う。個人的にホッとする理由は、昔々に遡らなければならない。
それはたぶん10年位昔のニューヨーク、当時のビジネスパートナーに紹介された、ニューヨークの日本人建築家T。彼は最近のWTC再建コンペでも最終候補に残ったほど有名な建築家のオフィスで働いていた。有楽町のフォーラムも設計した有名建築家だ。ことあるごとに、ダウンタウンにあるオフィスに遊びにおいでと誘われ、実際行くと、今やっているプロジェクトのスケールモデル制作風景なんかを誇らし気に披露するのだった。「このモデルはね、今MoMAに飾ってあるんだよ。ぼくが作ったんだ」なんて感じ。彼は理系有名大学卒のインテリで、ブリーカーストリートのロフトに居を構え、ロシア系アメリカ人の彼女をもち、何だかとても偉そうだった。ハッキリ言って最初からウマが合わなかった。でも、彼もそう思っていた。ある晩彼はサミュエルアダムスを飲みながらこう言った「世界中には星の数ほど新聞があるけどね、タイムズほど質の高いものはないよ。ニューヨークに住んでいるのに、この新聞の特に日曜版を読まないなんて神経を疑うよ。え、キミ読んでないの?ふーん、そうなんだ、フッ、ダメだねニューヨークはまだまだ語れないね」。それ以来、何だか余計新聞嫌いになった。WEB上のニュースは読むけれど、元々活字嫌いだし、森林資源を無駄遣いするのは嫌だし、だいいち新聞はインクで手が汚れるから嫌い。そんな自分だが、その後、ニューヨークのガイドブックを出版したし、タイムズの記事は嘘っぱちだったなんて!
ちょっと嬉しい。
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5月13日(火)
妻と妹は若い割に体力がない。厳密に言うと、遊んだり何だりする体力はきっとあるが、ちょっと運動ぽいこと、例えば息継ぎを我慢してプールで泳ぐとか、ちょっとした山を登るとか、伊香保温泉の石段を登るとか下るとか、そういう「根性」が必要な要素が加わると、途端にやる気が見られない。元々体育会系の自分とは大違いだ。この日も、せっかく温泉に行ったと言うのに、途中まで全然やる気がなかった。でも、温泉の中ではアシカのショウをしたり、姉妹で妙にはしゃいでいた。うーんキミたちってわかりやすいね。
IT系の会社に月の1/3ほど通い、これまでとは随分違うペースで暮らしているが、何をしているのかと言うと、ちょっとお茶を濁しつつ、真新しい事にチャレンジし、学習し、さらにお金を貰っている。最初はIT馬鹿どもの不健康で成り金的な体質や態度が嫌で嫌でたまらなかったが、一応外資だし、システマティックだから自分に与えられたことだけやっていればいいかと踏んでいたが、やはり出来る男というのは罪なものだ(自称)。居心地が悪かったから、ちょっとだけ画策したら、職場の環境なんてものはあっと言う間に変わるものだ。たぶん他人と同じ事をしていると、他人と同じだけ嫌な思いをする。では、他人と違う事をして、組織にとって有益な働きをすればどうなるかというと、意外と放っておいて貰えるものだ。つまり、ある程度の自由や権限が与えられ、無駄なプレッシャーを強要されることが少なくなる。分かりやすく言うと、誰も英語対応ができないから、自らかってでたら、ここ最近は1日中英語対応がメインとなり、その他の通常業務は「時間が空いた時に」すればよくなった。しかし、こういう状態はいつまでも続かないのはわかっている。やがて組織的な統合が行われ、勝手は許されなくなる。それが会社というものだ。まぁそうなってもアルバイトだからどうでもいいんだけどね。即刻辞めるもん。
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5月12日(月)
いつもなら、車の中のコイは過度のストレスを感じ、ふいたり、金魚のように口でパクパク息をしたり、ドアに向かって「出してくれ」と雄叫びをあげるのだが、この日は違った。ファファと一緒に後部座席裏のダッシュボードに陣取り、車窓に流れ行く日曜夜の足立から荒川、日暮里、駒込、巣鴨辺りの景色を愉しんでいるではないか。本当のところどうなのかわからないが、ただの一度も雄叫びをあげなかったばかりか、画像のように右前足をヘッドレスト脇にダランと垂らしたりして余裕の表情…うーん、キミの身にいったい何が…もう恐くないの?車移動。
さて、お祖父さんのお葬式に参列してからというもの、人の死についていろいろと考えている。例えばどんなことかと言うと、なぜ自分のような血のつながりも、その土地に所縁もない「ほぼ」他所者が、生前わずか30分ほどしか接した事のない、群馬県は前橋市に住む92歳で亡くなったお祖父さんの亡骸と共に、より多くの時間を過ごすことになったのだろうか。また、親族の若い衆の一部として遺族の方々に混じって、お別れにお祖父さんのお口に水を含ませたり、棺を担いだり、お箸で骨をリレーしたり、涙したり、お葬式で親族の先陣を切って焼香したり…別に妻のお祖父さんだからと言ってしまえばそれまでだが、それにしても亡くなったお祖父さん自身は、自分の事を天国でどのように思っているのだろうか…妻の話では大変厳格な方だったと聞く。38年の人生で30分ほどの僅かな付き合いだったが、お葬式後、とても親近感がわいた。今更ながら、生前にもっとお話ししてみたかったと思う。
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5月11日(日)
しばらく更新できなかったのは、群馬県にいたからだ。これは今日、全ての予定が終了し、東京に戻る前に伊香保のグリーン牧場に立ち寄って、羊たちとたわいもない時を過ごした時のもの。相変わらず、ソフトクリームと牛乳は美味しいし、羊を始め、山羊、あひる、牛、鶏などの動物たちは素朴だし、シープドッグショウは見応えあるし、今日などは生まれて初めて、乳搾り教室に参加したりして、充実した時を過ごした。その後、伊香保温泉にも立ち寄り、石段を登り息を切らした後、高台にそびえる高級旅館「福一」の露天風呂に1300円払って日帰り入浴し、誰もいない茶褐色の源泉で身もココロも清めたのであった(素晴らしい露天風呂だった)。
と言うのも、木曜日の朝、妻の母方の祖父が92歳の天寿をまっとうしたとの連絡が入り、あらゆる予定をキャンセルし、急遽猫兄弟を埼玉の実家に預け、翌早朝より前橋に向かって車を飛ばすことに。どうにか、11時の湯灌(ゆかん)には間に合い、ほっと胸をなで下ろす。実はこの日から休みをとって同じ群馬県の四万温泉に妻と2人で出かける予定であった。そういう理由でたまたま休みだったのが幸いしたのだが、温泉で骨休みという甘い夢は一瞬のウチに吹き飛んでしまった。で、4人兄弟と13人兄弟の組み合わせにの地主のお祖父さんだけあって、物凄い数の弔問客で葬儀場は膨れ上がったのだった。急だったので、黒無地のネクタイを買うぐらいがやっとで、喪服なんてものは準備できず、限りなく黒に近いがピンストライプの入ったビジネススーツで仕方なく参列した。見た事もない親族のじいさん、ばあさん、おじさん、おばさん、若い衆、その数ゆうに80人以上!
やっぱり田舎の葬式ってスゴイ。自分なんて、親族の中では新参者の他所者なのだが、座席の関係で、親族では一番最初に焼香しなければならかったりして、極度に緊張した(そんなことはこの20年したことがない!)。結局、お通夜、通夜ぶるまい、告別式、出棺、荼毘所、葬式ふるまいまでフルコースで参加し、モノの見事にスーツはしわくちゃに、気を使い過ぎて肩コリも最高潮に達した。だから帰りに伊香保に寄った次第。とにかくお祖父さま、どうか安らかに。御冥福をお祈り致します。
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5月7日(水)
記憶が蘇ったついでに、イタリアは話しを。サルディーニャ島はヨーロッパ随一のコルクの産地でもあって、イタリアワインのほとんどのコルク栓は、この島のもの使われるのだそうだ。島についてすぐに、迎えに来てくれたリカルドの車から、車窓を流れる雄大な景色を見てハテ?と思った。それは何とも摩訶不思議な光景であった。なぜか木々の幹が白いのだ。最初は、この島には至る所で羊が遊牧されているので、そいつらがムシャムシャ食っているのだと勝手に解釈していたが、そんなはずはない。やっと英語スクリプトのスイッチが入ったジェリーの説明を聞いたら「コルクを作るため」ペリッと樹皮を剥ぐのだそうだ。
画像はこの島の祖先が住んでいたという住居跡(の前で飛び跳ねる妻)だが、かなり古い代物で、どれくらい古いのかというと、それは紀元前に遡るというから驚きだ。何もかも古そうだけど、進歩的な部分もある。こういう遺跡の奥の方の丘の上には、純白の風力発電用巨大風車がそびえたりしている。でも、それも何故だか風景に馴染んでいるからまた不思議。もし訪れる機会のある方は、これらにも注目して楽しくサイトシーイングして下さい。
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5月6日(火)
今日ジェリーから突然メールが届き、開いて見るとこれと言ったメッセージはなく、ただ画像が添付してあるだけだった。が、確かにこの画像に言葉はいらない。そのスキャンされた写真を見て、最初に感じたのが「潮」の香り。何千キロものディスタンスを瞬間的に飛び越え、脳裏に鮮烈に蘇った。それはとても香しく湿った地中海特有の甘く美味しそうな香り。何とも言えぬ懐かしさ…思わず目をつぶると、海の背後にはシシリー島やサルディーニャ島特有の岩山がそびえ立つのが見える。ああ何と神々しい島。そして優しいともだちの笑顔。その息子たち。
ジェリーはロンドン以来keep in
touchしているイタリア人のともだちだ。元々はシシリーはパレルモで生まれ育ったチャキチャキの島娘は、やがてサルディーニャはサッサリに住む銀行マンと結婚。最初に生まれたのが、画像右のアルベルト。このページをちょっと見て欲しい。今やおそらく日本の小学生並みの腕力であろう、4才半のアルベルト。そして、左がまだ見ぬ次男のマンフレディ。誰に似たのか、彼はブロンドだ。昔ジェリーは言ったもんだ「島の男はわたしのブロンディブラウンヘアとヘーゼルグリーンの瞳の虜になるのよ」と。今年は我慢して一所懸命働いてお金をためて、彼らに会いに行きたい…なんて思うに十分なほどのインパクトを持った写真だった。A
lot of baci Gery!!!
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5月5日(月)
まず最初に、Happy Birthday Koi!
めでたく6才になりました。6,745マイル(10,792キロ)もの距離をフライトし、15日間も検疫所に閉じ込められ、それでもすくすく可愛く歳をとっているキミ、いつまでもぼくと、その家族に生き甲斐を与えてくれてありがとう。そしてこれからもすくすく元気でもっともっと素敵な時をシェアしましょう。
と言いながら、今日の画像は珍しくもファファ。何でかと言うと一昨日の前振りのご報告。つまり、よく晴れた日曜の昼下がり、ファファの初恋の人は、ついに大塚駅に到着した。最初は人間同士もかなり久し振りだったので、猫そっちのけで会話に華を咲かせたり、ランチに用意したタコを頬貼るのにやっきになっていた。でも、やはり2人(猫)は魅かれあっていたようで、タコシェルの数も残り少なくなると、ミスkmnとファファは、あのマンハセットの禁断の2週間を懐かしむように、おもむろに始めたのだ…何をって…グルーミング。
思うにこのコンビ、とってもお似合いなのだ。ファファは基本的にとっても変わり猫、そしてファファに負けず劣らずミスkmnも変わり者だ。だから有無を言わさず波長が合うのだろう、この辺りはもうロジックじゃないのだ。フィーリングなのだ。ミスkmnは、ファファを櫛でとかす間、まるで乳飲み子をあやすかのようにキャットランゲージを連発し、通常ならバタ狂い暴れるファファを見事に抑え、そして画像のように膝の上で大人しくうっとりさせてしまった。こんな事はありえない。やっぱりファファはこの人が好きなのだ。夕刻になり、後ろ髪引かれつつ我が家を後にするミスkmn、グルーミングのかいあってさっぱりしたファファも名残惜しそうにお見送りしていた。フッ、良かったね、お2人さん、末永くお幸せにダバダバ〜♪。
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5月4日(日)
愛車E34のエアコンも直ったし、もう気温が何度になろうが快適ドライブ間違いなしということで、本当は遠くまでお出かけしたかったのだが、馬鹿らしい渋滞に巻き込まれるのが嫌なので、都内を徘徊することした。
まず訪れたのは、大して混雑してないだろうと踏んで浅草。んが、甘い。そんなわけない。ゴールデンウィークだもの。あまりの混雑ぶりに、車を停める気にもなれず素通りし、そのまま清澄通りにUターンし、自分が昔暮らしていた門前仲町方面へ。で、途中立ち寄ったのが「深川江戸資料館」。ここ開館当時に1度訪れたことはあったのだが、もう随分前の話しである。で、結論から言って、このこじんまりとした資料館は周囲の環境も含めて素晴らしい。入館料300円を支払い地下1階へ下りると、江戸と言っても深川辺りにあった長家街のジオラマが表れる。コンピュータ制御で自動的に朝から晩までが20分程度に凝縮され、長家街の一日の暮らしぶりが再現されている。昼尚薄暗い長家には上がる事もできて、庶民の生活ぶりも事細かにわかり大変興味深い。けっこう芸が細かく、裏庭の板壁にさりげにカタツムリがくっついていたり、屋根には野良猫が寝そべり顔を洗っていたりする。そもそも江戸の下町の原形は、町人街として日比谷の入り江を埋め立てて出来た地域(神田・日本橋・京橋辺り)に形成され、浅草や深川辺りも浅草寺の門前町として下町に取り込まれたのだそうだ。深川は特に明暦の大火(1657)で江戸の大半が消失した後に水辺に発展した地域で、現在も特産物みたいに取り扱われている深川飯(あさりの佃煮炊き込み御飯)に代表されるように、江戸前の新鮮な魚介類が人気を博し、花街なんかもあったので、とっても下世話な江戸の行楽地だったらしい。長家の人々の暮らしぶりも含めて、とっても楽しめるので時間のある方は清澄庭園とセットでぜひどうぞ。江東区白川1-3-28 TEL:03-3630-8625 大江戸線・半蔵門線 清澄下車5分
帰りに富岡八幡宮に寄ったら、おしゃまな看板猫娘がいたりして和めた(コイツはまじ可愛い)。ついでに辰巳の倉庫街まで行き、ペーパードライバーの妻に運転の練習をさせたり、神田の「薮」で蕎麦食ったり(やっぱり不味かった)、思いも寄らず有意義な1日となった。
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5月3日(土)
とにかくファファは待ち遠しい。あの人がやって来るから、いてもたってもいられない。最初の出合いは、1999年春のスタテンアイランドだった。お友だちと一緒に遊びに来て、近くのビーチに遊びに行く時に初体面した。あの人は当時駐妻(駐在員の妻ね)で、お金持ちでマーキュリーのミニバン(マイカー)なんかお持ちだったので、なんかの集まりで遅くなる度、おっさんをアパートまで送ってくれていた。そんなこんなで2人(猫)は出会い、そしてあっと言う間に恋に落ちた。その後、日本に帰国する2週間、これまたお金持ちのユダヤ人とかがたくさん暮らす高級郊外住宅街マンハセットの無駄に広くて豪華な一軒家に預けられ、この間2人の仲は決定的なものになった(らしい)。勿論、コイも一緒に預けられたのだが、さすが内弁慶だけあって、おどおどして柱の影に潜み続けていたそうだ。
そう、明日はファファにとって特別な日である。と言うのも、約2年半ぶりにその人に会えるから。初恋の人は訳あって、一足先に日本に帰って来てしまっていたから、会う機会が得られなかったのだ。たまたま猫兄弟と同じようにやんちゃな兄弟のママであるが、ゴールデンウイーク中日の明日はお友だちがお子を映画に連れて行ってくれるらしく、時間がとれるらしい。そう、ついに会える!
だから、ファッちんは待ち遠しい、いてもたってもいられない。
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5月2日(金)
もうすぐコイの誕生日だ。ニューヨーク、マンハッタンはアッパーイーストサイド生まれの帰国子(猫)女であるところの猫兄弟。日本で初めて迎える端午の節句であるが、部屋から鯉のぼりとか見えたり、鎧甲を飾ってあったり、柏餅を食ったり、菖蒲の湯に浸かったりする訳ではないので、全く実感はないだろう(例えあっても実感はないだろう)。ただ1つ、換気の為に開け放つ事のできるようになった5月の窓から入り込んで来る、バカ優等生っぽい声の子供の歌う屋根より高いこいのーぼぉりー♪である。もちろんこれは北大塚銀の鈴商店街の電信柱にくくりつけられたスピーカーから流れ出てくるものであるが、まぁそれにしたってコイには関係ないか。
ところで、なぜコイはコイと呼ばれているのかと言うと、それは英語の「coy」からきている。first
impression
が決めてだ。最初この子猫を見た時、まだオスかメスかも知らない段階で、1匹だけとってもはにかみ屋で、いやに無口だった。しかも、頭が絶壁でその割に目鼻立ちはくりっとしていてちょっと鯉っぽかった。さらに誕生日の5/5は端午の節句であった。はたまた「来い」というと来る猫っていいなと思った。また、当時シングルだったので「恋」をしたかったと言うのもあったかもしれない。名付けをする時に、これだけたくさんの要素が揃ったら、もう何も迷う必要はない。最初はファファにちなんで、2回繰り返しの名前をと目論んでいたが、あっさりコイに決まり、以後6年経てもその判断は正しかったと思える。そんなコイも、もうすぐ6才。相変わらずはにかみ屋だが、元気すぎるほど元気に育っている。
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